川村英司 レクチュア・コンサート 2004‐2005年度 第3回の2
2005年4月2日(土)15時00分
再度2005年7月30日(土) 18時00分 

於:Studio Virtuosi

Johannes Brahms 作曲 "初期の歌曲"より 

バリトン:川 村 英 司

ピアノ:小 林 秋 恵

 今回はブラームスの初期の歌曲を取り上げます。
 ブラームスの生年月日は1833年5月7日です。1897年4月3日に亡くなっておりますので、それ程昔の作曲家ではないのです。今から2年前がフーゴー・ヴォルフの没後100年の記念の年であり、僕の考えていた遥か昔に存在したと思われる作曲家たちが、そんなに昔に生きていたのでない事を思い直したのでした。しかし100年前の地球や人々の感情はどのようだったのでしょうか?人心や自然は想像できないほど違っていたと思います。皆さんは想像した事がありますか?

 昭和7,8年(1932,3年)の北海道最東端の根室、1935,6年から42年までの釧路、1943,4年から48年の室蘭、戦時中動員されていた日高などの僻地の農村などを僕はいつでも懐かしく思い出すことが出来ますし、しっかりと脳裏に焼き付いています。現在の生活と比較して昔を懐かしく思うのは年のせいだけではないと思いたいのですが。

 しかし我々が音楽を演奏する時には60年70年の昔を想像するのではなく、100年200年前の人間の生きた諸々を考えなければならないのです。その時代の人の感情、風景を想像する楽しさがあるのです。

 我々が歌う歌詞はその当時の自然であり、人間の感情ですので、それらをどのように想像して表現するかを考えて表現の土台に加えなければなりません。

 ヨーロッパでは日本のように自然を破壊する事が開発と思う政治家や官僚は多くは無いと思います。自然を残した上での開発、破壊した自然をとり帰すことの難しさを知った上での開発がヨーロッパの政治家や官僚の頭にあると思えますし、自然を残す事に常に心配りをしていると思います。ヴィーン市を取り巻く「ヴィーンの森」が残ったのも戦争直後の政治家の見識の賜物なのです。

 僕は故郷の北海道に戻るたびに昔の風景が失われている事にがっかりを通り越して憤りを感じます。又今の子供たちを可哀想にと思うのです。勿論地域格差は出来るだけ無くしなければなりませんが、自然とのバランスをとらねばならないのです。砂浜がものすごく少なくなったと思われませんか?綺麗な水が流れる小川が少なくなったと思われませんか?小川のせせらぎも中々聞けなくなったように思うのですが。

 今から何十年前になるでしょう。「列島改造論」を掲げた田中角栄元首相以来政治家イコール不動産屋みたいな時代で日本の自然と農業を破壊したと思います。その結果は昨年のように自然災害を招くのです。山に木が少なくなれば雨を吸収できずに地滑りなどの災害が起き、洪水などの水害も起こるのです。

 ヴィーンの中心部から2,30分市電やバスに乗ればかの有名な「ヴィーンの森」に着きますし、直ぐに自然の豊かな森の中を歩く事が出来るのです。秋になれば落ち葉のカサコソと言う音を聴きながら散策を楽しめるのです。勿論森林浴も楽しめて、良い空気を存分に吸うことが出来るのです。そのような所で約5年間勉強が出来た事が以後の僕の演奏に大変プラスになりました。100年、200年昔を想像しやすい建築物などの史跡はもとより、400年500年も経た建築物もたくさんあります。僕はドイツで600年前に建築されたホールで歌った事があります。木製の椅子の背には町の紋章が彫られている、すごく立派なもので、照明は全部すごく太いローソクだけでした。ピアニストは大変だったと思います。何故ならば太いローソク2本で楽譜を見なければならなかったのです。床板の厚さにも驚きました。10cmもありそうな長い樫の一枚板が敷き詰められてあったのでした。
 昔をしのぶのに充分なホールでした。しかもそのあまり大きくない、田舎のホールにしては結構有名な演奏家が大勢招かれているのにも、驚きました。

 ではブラームスに戻ります。

 ブラームスがシューマンに出会ったのが1853年9月30日で、8月の末シューマンは既にブラームスの友人ヨアヒムから彼についての話は聞いていました。シューマンは彼の才能を大いに買って1853年Neue Bahnen(新しい道)と言うタイトルで論説をライプツィッヒで出版されていた "Neuen Zeitschrift für Musik" の10月28日号に寄稿しました。

「数年が流れ去った − 私がこの雑誌の以前の主幹として携わったのと同じ年月なので殆ど10年になります。 − 私はもう一度この思い出深い誌上に意見を述べさせてもらいます。

・・・・・・・・ 時代の最高の表現を理念的に述べる使命を持ち、しかも、段々と脱皮しながら発展していって大家になったのではなく、丁度クローニオンの頭から完全に武装して飛び出したミネルヴァのような人が突然現れるだろうし、現れなければならないはずだと。そして遂に彼は現れたのである。彼は若い人であり、そのゆりかごは優美の女神、グラーツィエと英雄によっても守られてきた。彼はヨハネス・ブラームスといい、ハンブルグ出身である。彼は秘かに創作を続けていたのであるが、ある優れた、しかも熱心な教師によって、この芸術の最も難しい技法の教育を受け、つい先日、ある尊敬する著名な大家によって私に紹介されてきたのである。彼は風貌からして、これこそ天性の人だとうなずかせる人だった。 ピアノの前に座り素晴らしい国の扉を開き始めた。我々はどんどん魅惑的な世界に引き込まれていった。その上演奏が全く天才的で、ピアノから悲しむ響きや喚起の声のオーケストラを奏でたのである。 ・・・・・・ 歌曲は深い旋律で貫かれており、例え歌詞を知らなくとも詩を理解できるものだあった。 ・・・・・・ R.S.」

 その論説に対してブラームスは11月16日にハノーヴァからシューマン宛に感謝の手紙を書いています。
「尊敬するマイスター!  先生は私を限りなく幸福にしてくださいました。到底感謝の気持ちを筆舌に尽くす事は出来ません。・・・・・  私が先生の御名を汚さぬようにあらん限りの力で精進いたします。・・・・・」 
 この話は非常に有名ですのでご存知とは思いますが付け加えました。

 歌曲を作曲した有名な作曲家の作曲態度と言いますか、残っている逸話について少し話をしたいと思います。

 ハイドンは自分で詩を探すのではなく友人に探して紹介してもらっていた話は有名です。おまけに二度目に詩を頼んだ時には「詩が作曲家を嫌ったり、作曲家が詩を嫌う事もあるので、そこを勘案して多めに推薦して欲しい!」と依頼していたのです。今では全く考えられない事ですが、作曲に忙しかったハイドンが詩を探し出すことは出来なかったのでしょう。

 バッハも忙しく作曲しなければならなかったことでは誰にも負けないでしょう。そのためと思いますが、全く同じメロディーで言葉だけが違うカンタータなどのアリアは幾つかあります。

 シューベルトは詩を読んで気に入るとレストランのメニューの裏にでも五線を引いてもらい、即座に作曲した事は有名ですし、或る時には自分が作曲した作品すら覚えてなく、「良い曲だね!誰が作曲したの?」と友人に聞いたという話すら残っています。にもかかわらず、おなじ詩で何度も試行錯誤し4度、5度と書き直しをする事も度々でした。

 ヴォルフはある時期に一人の詩人だけを作曲したことで有名ですが、気に入った詩を声高に何度も朗読し、静かになったときには曲が出来ていたと言われています。

 ブラームスは彼の生徒に「気に入った詩を見つけたら、その詩から離れてしまっておきなさい。しばらくして戻ってみると自然に曲が出来上がっています!」というようなことを話していたと言う記録が残っています。

 それぞれの作曲家にも色々なケースがあるのは当り前ですが、作曲家の一面が見えるような気がします。

 シューベルトの作品1は、かの有名な魔王ですが、ドイチュ番号では328番目の曲です。

 シューマンは幾多のピアノ独奏曲の大作を作曲した後の作品番号24から歌曲の作曲が始まり、その年が所謂歌の年1840年となりました。

 ブラームスがシューマンと知り合った後に楽譜は出版されるようになりましたが、歌曲の作曲は1851年以前には殆どないようです。作品3が歌曲の最初で、有名な「Liebestreu」の含まれた歌曲集でBettine von Arminに捧げられました。

 シューマンのIn der Fremde(異郷にて)を歌ったときにブラームスの作曲したおなじ詩のこの曲を紹介しましたが、この作品3の6曲中にアイヒェンドルフの詩が2曲含まれており、関連性を感じますので5,6番目の歌を続けて歌います。

 故郷を思う心が色々に表現されていると思います。

 この作品3の5と6のLiedを歌います。

 もう3年も前になりますか、オッカー先生とリュベックのブラームス研究所を最初に訪問した時の事ですが、初版を眺めていたオッカー先生が「英司違いがあるよ!」と叫びました。作品19番の1「口づけ」の一節の詩が現在とは違っていました。早速ヴィーン市立図書館でHöltyの詩集(参考資料1)を探したらブラームスの初版とおなじ詩が掲載されていました。

  [ 単語の意味については木村・相良の独和辞典には出ていますが、それ以外では載っていない辞書が結構あると思います。我々が学生の頃は木村・相良の辞書が良いとされていて、僕自身何年かに一度は買い替えていましたので、何冊か持っています。同じ辞書でも時には言い回しが変りますので、少なくとも10年に一度は買い替えをお勧めします。今から40数年前には、wahrscheinlichもvielleichtも同じ日本語「多分」と訳されていましたが、きちんと使い分けをしなければならないのです。]

 歌ってみると今風というか "liebend"の方が、"liebelnd"より発音しやすいのは確かですが、詩の持っている感じは遥かに違うようです。誰がいつ直したのか、ブラームスのSimrockから出版された再版では "liebend"になっています。 Friedelaenderが1922年に書きSimrock社から出版された "Brahms' Lieder" Einführung in sein Gesänge für eine und zwei Stimmen (参考資料2)にはこの件にも触れていますので参考資料に載せました。 (参考資料3)

 我々日本人が聴いて "liebelnd"と "liebend" の違いをどのように感じられるか、その両者をそれぞれの意味をこめて歌ってもますが、いかが感じられましたか?ドイツ人が感じるようには分からないだろうと、僕自身感じるのですが、何故再版からブラームスが変えたのでしょうか、ブラームスに訊ねたい気持ちです。

 今年はインフルエンザの予防注射をしたので風邪も引かずに冬を越せたと思ったとたんに油断からでしょうかひどい気管支炎にかかり、ひどい目に会いました。やっと痰が出るようになったのですが、まだ歌える状態ではなく、又今回は電話での臨時会員の申し込みが多く、住所も分からない方が多いために延期にも出来ず、歌えるところまで歌って後は7月下旬にやり直す事といたします。その時では都合の悪い方には会費をお返しいたしますので、お申し出てください!又臨時会員の住所をお知らせください!後ほど連絡申し上げます。

 次に作品32の歌曲集 Neun Lieder und Gesänge von Platen und Daumerに移ります。最初の曲はブラームスらしい伴奏と言えると思います。分厚いオーケストラのような響きを想像します。しかしブラームスは所謂 ゲーテが主張したベルリーン歌曲派の"Lied" の概念に賛同したような発言をしています。タイトルに "Lieder und Gesänge" といった使い方が多いのもブラームスの特徴でしょう。Weise, Lied, Gesang, Ballade それぞれに使い分けられていたのです。

 最初の曲はスケールも大きいし、今日の僕のコンディションでは大変ですので2曲目の "Nicht mehr zu dir zu gehen" を歌います。

 戦後直後にヘレン・トラウベルと言うメトロのソプラノが訪日しました。伴奏のアレクサンダー・ボスさんが、若い頃にブラームスが聴いているコンサートで伴奏を弾いた時の話をされたのを直接聴きました。バリトン歌手の伴奏を弾いた時に楽譜のとおりに終りをピアノで弱く歌い、伴奏もピアノで弾いたそうです。終わったらブラームスが楽屋に見えてとても誉めてくれたそうです。次ぎの機会にテノールの伴奏を同じ曲で弾いたそうですが、テノールが終りをどうしてもフォルテにしたいと言い、フォルテで終わったそうですが、同様にブラームスが楽屋に着て「とても良かった!」と誉めてくれたそうでした。作曲家が書いた曲を出来るだけ作曲家の考え通りに演奏する事が第一ですが、色々試みても、どうしても納得のいかないときには強弱や速度を変えることは致し方のないことと思います。

 僕も経験があります。楽譜に非常に忠実に演奏する事を要求する作曲家でピアニストのHermann Reutter先生の曲を本人の伴奏でStuttgartの放送局で録音を取る事になりました。とても高い音を歌わなければならないので、かなり良く練習をして出掛けたのですが、お会いして最初の先生の発言が、「非常に高い音で大変だと思うからメロディーを変更するよ!」との事でしたが、折角勉強して行ったので、また新しく勉強するのは大変なので「大丈夫原調で歌えます!」、「出来ればその方が良いです。」で目出度し、目出度しだったのですが、もしあの時に「どのように直されるか一応書いて下さい!」といって先生に書き加えてもらっていれば、僕だけの特別の楽譜が出来たわけで、惜しい事をしたと後悔したものでした。

 この Nicht mehr zu dir zu gehen は歌い始めてから55年は経っていますが、終りの部分の"Dein wahres"(参考資料4)の強弱に納得がいきませんでした。最近やっと納得できるようになったようで、依然僕が歌ったこの曲を記憶されている方は、違った表現と思われるかもしれません。違った表現も考えられるようになったわけです。

人間色々と変るものですので色々な観点から表現を考えてみては如何でしょうか?

 残念ながら今日はここまでにして終わらせていただきます。この会のやり直しは7月30日の6時から致しますので、その時に続きをお楽しみください! 



ここまでの文章も少し変えましたのでお暇な時にお読みください!

前回はここまでを歌いながらおしゃべりして終りと致しましたので、この先を続けます。

4月にヴィーンのWiener Stadt- Landesbibliothekの書籍の部門でHöltyの詩集等を調べてきました。前述の"Der Kuss"をいくつかの詩集で較べてきました。
1790年出版の詩集(表紙、参考資料5)では liebelnd (参考資料6 )
1803年出版の詩集(表紙、参考資料7)でも liebelnd (参考資料8) ですが
1816年出版の詩集(表紙、参考資料9)では liebend(参考資料10)です。
1841年出版の詩集(表紙、参考資料11)ではこの詩は選ばれていませんでした。
詩集は時代によって変化することは多々あります。殆どは詩人によるものと思いますが。

 次回に予定しているBrahms(2)のときに話しますが、有名な "Die Mainacht" のHöltyの詩とBrahmsの相違点についても話したいと思っています。

 今日取り上げました作品32の歌曲集はBrahmsがペルシャ(現在のイラン)の詩人Hafis(ハイーフィス)の詩を訳したDaumer(ダウマー)の詩とPlaten(プラーテン)の詩から選びましたが、Brahmsの歌曲として非常に優れた歌曲が含まれています。ヴィーンでの最初の僕のリサイタルにもBrahmsを一ステージ組み、その4曲中の2曲が偶然この作品番号の歌曲でした。

 この曲集の表紙には(第2版)
LIEDER u. GESäNGE / von / AUG. V. PLATEN und G. F. DAUMER / in Musik gesetzt / för eine Singstimme / mit Begleitung des Pianoforte / von / JOHANNES BRAHMS. / [links:] HEFT 1. / Pr. 2. Mk. 30. / [Mitte:] OP. 32. / [rechts:] HEFT 2. / Pr. 2. Mk. 30 / [Mitte:]
Eigenthum des Verlagers / LEIPZIG u. WINTERTHUR, J. RIETER-BIEDERMANN / 400 a. b.. と2分冊で印刷されています。初版の表紙は外枠の飾りが赤色で印刷されています。僕が所有している楽譜は空色ですので第2版(参考資料12)だと思います。Plattennummerは400 a. b. ですので楽譜は初版と同じだと思いますが。値段も初版は Pr. 22 1/2 Ngr. で、出版社名に WIEN, C. A. SPINA も印刷されています。
第3版(参考資料13)になるとConstance Bache と R. H. Bensonの英訳が付けられて印刷されています。

個々の曲について話を進めます。第1曲と第3曲から第6曲まではAugust von Platen(アウグスト・フォン・プラーテン)の詩で、第2曲と第7曲以降はGeorg Friedrich Daumer(ゲオルク・フリードリッヒ・ダウマー)のドイツ語訳で、第2曲はMöhrisch(メーリシュ、チェコのメーレン地方)の民謡です。第7曲以降はペルシャ(現イラン)の詩人Hafis(ハーフィス)の独訳です。

Nr. 1 Wie rafft ich mich auf in der Nacht (August von Platen)
 この曲はブラームスの区分けではGesangの範疇でしょう。また伴奏は次の作品番号33のマゲローネ姫のロマンスと同様に歌と伴奏の協奏曲的な性格を持っているように感じます。歌は歌、伴奏は伴奏で流れを重視して演奏し、偶然縦にも合っていたと言う感じを僕はこの曲では望んでいます。伴奏者の個性を生かして共演者として最大限の表現をしてもらうことが、Lied=Duoの極致だと思うのですが、ピアニストはオーケストラの指揮者のつもりで弾く事がこの曲やマゲローネでは特に大切です。勿論歌手を打ち負かすようなソノリティーに富んだ音で弾かれては、歌手がしぼんでしまいますので限度はありますが。このような曲は沢山ありますので、ピアニストは歌い手に負けないように、そして勝たないように弾いて欲しいものです。
オーケストラのように色々な音色を使って弾いて欲しいものです。ピアノと言う楽器は一度ハンマーが弦を叩くと、デクレッシェンドしか出来ない不便な楽器ですが、その楽器で如何にクレッシェンドしているように聴かせるかというのもピアニストの腕前です。
どちらかと言うと、日本では特に声楽の場合墨絵のような色彩感に乏しい音楽が多過ぎると思っています。特に白黒灰色で演奏される「冬の旅」は正しくないと思います。

 [ 辞書によって aufraffen の意味が色々に解釈できるほどの違いがあることに気付き、独和大辞典(小学館)、独和大辞典(相良)博友社、クラウン独和辞典(三省堂)などを比べてみました。当日急に思いつきました。

 早速次のメールを下さった方がおりましたので掲載いたします。

「私の持っているDUDEN Deutsches Universalwoerterbuchには

a : muehsam, mit Ueberwindung aufstehen, sich erheben
b : sich zu etwas ueberwinden
とあります。

WAHRIG Woerterbuch der deutschen Spracheでは
sich aufraffen
1 : mit Muehe aufstehen, sich erheben
2 : alle seine Kraefte zusammennehmen
und sich muehsam entschliessen etwas zu tun
となっています。
ちなみにWAHRIGには
etwas aufraffen の意味として
schnell, eilig sammeln und hastig , gierig aufheben, an sich nehmen
というのも出ていましたが、この「hastig, gierig aufheben」は前後の
「sich nehmen」や「sammeln」から考えて「起き上がる」ではなく
「拾い上げる、集める」という意味だと思われます。

これを見る限り「やっとの思いで起き上がる」のほうが近く
「飛び起きる」は一体どこから来たのでしょうという印象さえ受けます。
もしかしたらもっと大きな辞書には別の意味が出ているのかも
しれません・・・・・。機会があったらまた見てみます。

それにしても、ほんの一言の意味で随分曲の印象が
変わってしまうのですね。言葉って難しいですね。」と書いてくれました。

ちなみに僕のBrockhaus Wahrig Deutsches Woerterbuch in 6 Baende では
1 schnell, eilig sammeln und hastig , gierig aufheben, an sich nehmen
2 mit muehe aufstehen とありました。 ]

Nr. 2 Nicht mehr zu dir zu gehen (Georg Friedrich Daumer.  Aus der Moldau)
 僕が見たDaumerが訳したHafisの詩集の表紙(参考資料14-1)はこの通りですが、目次(参考資料14-2)を見るとAus der Moldau(参考資料14-3)というタイトルがついています。その第1番目の詩(参考資料14-4)が Nicht mehr zu dir zu gehen です。
 この詩は言葉が分かり易いというか、詩の内容を捕らえ易く、表現しやすい曲だと思います。この曲をかつての若い時のような表現と、ブラームスが考えたであろうと思われる強弱記号にそった表現の二種類を前回歌ってみましたが、もう一度歌ってみます。どちらが皆様にピンと来ますか。人それぞれで感じ方が違うのですから、どちらでも良いのですが。ヴィーンでの最初のリサイタルでも歌いました。

Nr. 3 Ich schleich umher betrübt und stumm (August von Platen)
 有節形式で作曲しているこの曲はブラームスが言うところのLiedでしょう。「リートは出来るだけ易しいメロディーで有節形式が望ましい。」とゲーテの受け売りのような事も言った事のあるブラームスですが、民謡を数多く収集したりしたのですから、彼の歌に対する考え方の一端を計り知れるような気もいたします。勿論色々な面を持っているのが人間ですから、決め付ける事は出来ません。有節歌曲における作曲家が指定した強弱記号は第1節には有効であるが、繰り返しの第2節以降は詩の内容に従い、或る時には全く違う演奏する事があります。何度も同じ表現をしないのが望ましいとヴィーンで習いました。同じ事を何度も繰り返されたのでは聴く側が退屈してしまいます。聴衆に退屈させる事は絶対にしてはならないことだと思います。
Platenの詩集はヴィーン市立図書館に何冊かありましたが、1853年に出版された2巻のPlaten集の第1巻(参考資料15)で詩を見つけ出す事が出来ました。その目次は参考資料16-1から16-3です。

Nr. 4 Der Stom, der neben mir verrauschte (August von Platen)
 ブラームスはこの曲を通作形式で作曲しています。非常に激しい表現の曲にブラームスは作曲しているように私は思います。
 大雑把にブラームスを評して「どんよりと暗い北ドイツ生まれで歓喜する事の出来ない作曲家だ。」と言われる事もあるようですが、どの作曲家でも得意な分野と不得意な分野があり、また名曲と一般的に評価される曲に憂愁をこめた曲が多いと、そのように言われてしまうのでしょう。ブラームスにも非常に情熱的な曲、歓喜に満ちた歌が幾つもあるのです。

Nr. 5 Wehe, so willst du mich wieder (August von Platen)
 この曲もヴィーンでの最初のリサイタルで歌いました。とても思いで深い曲です。このテンポの速い歌曲で第2節をどのように表現し解釈するかということが、難しさです。あまり意識的には色々な事は出来ません。

Nr. 6 Du sprichst, daß ich mich täuschte (August von Platen)
 歌を歌う事とは?いつも言うことですが、詩人が心で感じて言葉として残した詩から作曲家が触発されて音楽にした曲を、我々歌う立場の歌手が如何に忠実に表現するかということと僕は考えますが、皆さんはどう考えられますか?僕は主観的に解釈すべき詩は主観的に、客観的な立場で解釈すべき詩は客観的に表現したいと考えています。従って主観的な表現の方が多くなるのではないかと思います。人によっては 紵chメ 「私が」と言う詩でも客観的にと主張する演奏かもいるようです。人それぞれですからどちらでも良いのでしょうが。僕はその詩で言い表されている状況、心理などを出来るだけ自分をそこの詩の中に置き換えて歌う立場をとっています。

Nr. 7 Bitteres zu sagen denkst du (Georg Friedrich Daumer, nach Hafis)
 ペルシャ(イラン)という国、国民を皆様方はどのように考えていますか?千一夜物語などで想像する国アラビアと一緒なのでしょうか?
ハーフィスの詩から想像する国は非常に情熱的な民族で夢のような、赤裸々というか素直な感じがするのですが、皆様はどのように感じられますか?

Nr. 8 So stehn wir, ich und meine Weide (Georg Friedrich Daumer, nach Hafis)
 WeideはAugenweideを意味しています。Weideでは柳とか牧草地になり意味不明になってしまいます。この歌で僕はピアノと歌のメロディーの流れがよどまないように心掛けます。縦に合わせるよりも、お互いの流れが大切に思えるのです。

Nr. 9 Wie bist du, meine Königin (Georg Friedrich Daumer, nach Hafis)
 非常に有名なブラームスに歌曲の一つに数えられている曲ですが、僕はあまり多く歌ってはいない曲です。 先ずこの曲の歌いだしをどのように歌うかと言う事に神経を使わなければなりません。

 Wie bist du, meine Königin,  そなた、わが妃よ、
 Durch sanfte Göte wonnevoll !   やさしい慈愛により何と歓びに満ちている事よ!
 Du lächle nur ― Lenzdöfte wehn   微笑んでおくれ、春の息吹が
 Durch mein Gemöhte, wonnevoll !   私の心を吹き抜ける、喜びに満ちて!

Wie bist Du durch sanfte Güte wonnevoll ! のDu と meine Königinは同じなのですが、表現としてDuより大きな音にする事は出来ませんが、結構大きく歌っている無神経な歌手がいるように見受けられます。その両方を歌い分けて見ます。僕は大きくしない方がしっくり来ます。
色々な単語や行、節によって描くイメージも違いますので、それぞれで違う色彩感が必要だと思います。
特に3節の Durch tote Wösten wandle hin, 死の砂漠を通り抜けると
Und gröne Schatten breiten sich,  緑のオアシスが広がる
Ob förchterliche Schwöle dort 耐え難い暑苦しさが
Ohn Ende brüte, wonnevoll.  限りなく降りそそごうとも、喜びに満ちて!

 これらの行の色彩の違いをどのように感じられますか?この曲だけではないですが、Wonne、Wonnevoll、Freude、Sonneなど短母音の開口母音の "O" を如何に唇に緊張感を持たせ過ぎないで、また咽頭(Kehlkopf)を下げないで歌うという事が大切です。そうでなければ、響きや音色が暗くなり、声の伸びも無くなり、全く相応しくない声になりますので、特に気をつけます。

質問がありましたらどうぞ!

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